2017年8月13日日曜日

玉石混淆

英語は何のために学ぶのか。そして、どの程度身に付けるのが良いのか。

日本人は英語が下手だという脅迫概念に満ちているので、何とか英語を身に付けようとする人が一定数いる。

学校教育という限定された場で、どの程度身に付けさせるのか、については、達成目標が与えられているような、いないような、はっきりしない。現場の状況がさまざまであるから。

中学校や高校の英語の先生の英語力に対する批判があるが、ただ検定試験を受けなさい、といわれるだけで、実際成果を検証できない。

英語を教える人は、優秀な人もそうでない人も一定数いて、玉石混淆である。
本気で日本の英語教育の成果を改善したいのなら、ある程度優秀な英語の使い手が教えるのが、必要条件であろう。

英語の使い手として優秀な人は、英語の教え手にはなりたくないのではないか、と以前は思っていた。もっと英語を使える業界、給料の良い仕事があるからと思っていたから。例えば、通訳者、翻訳家、研究者など。

しかし、日本人として英語の使い手として優秀な人が、結局たどり着く業界が、日本の英語教育の世界ではないかと思い始めた。

かつては、優秀な同時通訳者であったり、英語ディベートのコーチであったり、生成文法など言語学の研究者であった人たちが、現在英語教育の世界で有識者として君臨している。

皮肉な見方をすれば、学習者として成功しどんなに英語が上達しても、結局たどり着くのは、英語を教える、という世界にとどまるということになろう。

日本の英語教育の業界は一つの巨大市場であり、それ以外の市場では、日本人が自分の英語の力を生かした仕事で食べていくことは難しいのかもしれない。

そうした人たちは学習者としては成功している。しかし、英語教育を専門的に捕らえる力があったかというと、未知数である。

そうして、日本の英語教育の世界は、専門性の高い「英語教育」に疎い人材が増えていき、ますます玉石混淆になっていくこととなり、混迷を深めていくのだ。

この混迷の中で、自分の育てている教え子には、英語が出来るようになってほしいのは当然だが、英語が出来るようになった結果がどうなるのか、ということまで見据えると、とても気分が暗くなる。

英語を生かせる仕事など、日本人にとっては、ほとんど無い、という実情がわかってしまったから。

英語はあくまでプラスアルファーであり、他に何か知識や技術・技能を身に付けたうえで、情報発信のメディアとして使えるのなら良いと思う。

英語修得だけを目標に習得しようとしていると、使い道はせいぜい英語教育の世界だけになっていくのが落ちである。

そしてますます玉石混淆が進んでいくのであろう。

正直、教え子たちには、英語以前に身につけるものをちゃんとしてから英語の修得という風に進んでいってほしいのだ。

でないと、必ずしも現状が魅力的とはいえない英語教育の世界に巻き込まれていくのが目に見えているから。